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  日 本 海 




 


北前船は日本海が育んだ水産物、特にニシンと昆布を運んで繁栄しました。それは資源豊かな日本海があったからこその出来事でした。このペ−ジでは
不思議な日本海と、そこに育つブリとニシンと昆布についてまとめてみました。






1月の日本海と北アルプス
 高岡伏木から

 日本海のイメ−ジ

日本海というと降りしきる雪とならんで、ドンヨリと曇った空と荒々しい北海というイメ−ジをもつ人が多いと思います。住んでいる私たちにとっては「メリハリがハッキリしているという感じ」ぐらいでしかありません。大型台風が日本海を通過するような時は別として、春から秋にかけての日本海はわりあいに波静かです。風がない時でも波やうねりのある日本の太平洋にくらべると、日本海では、風がない時は「油を流した」ような静かな海面がみられます。

初夏になるとキス釣りをよくしますが、適度な風に船を流しながらの釣りはとても気持ちの良い時間になります。秋になると、ブリの子供のフクラギをネライにいきますが、その頃になると少しづつ風が出てきて波も高くなり始めます。

北西の季節風が吹き出す冬季約4ヶ月の日本海では、波の高さは4〜5メ−トル、温帯低気圧の通過によって波高7〜8メ−トルになることもあります。日本海の波浪が激しく海岸に打ち寄せ、砂浜を削り取り、切り立った岩石海岸を形成するのは冬の季節のみです。





  ■ 対馬暖流

地球全体からみると、世界の海の0.28%にすぎないけれど、それでも100万平方キロメ−トルあって、日本の国土面積の2.7倍の広さがあります。比較してみますと、100万平方キロメ−トルとは太平洋の158分の1、大西洋の属海のカリブ海と比べても半分の広さ、地中海の3分の1、アメリカ合衆国の9分の1の面積になります。

対馬海峡から入って津軽海峡に出るまで約2月かかり、暖流として流れる水の量は毎秒200万トン、熱量の総計は400億キロワットになります。(日本の発電量が年間10億キロワット)


晴れた真冬の日本海と山々

水温の高い対馬暖流が幅の広い大河のように日本海の表層を流れて、このことが日本列島の気候に大変大きな影響をあたえています。北陸から東北にかけての日本海側は、緯度でみれば北緯36〜40度の範囲にあたります。

ヨ−ロッパでいえば地中海にのぞむスペイン南部やギリシャ、北アメリカでいえばカリフォルニア北部の緯度に相当してしまいます。そこに、世界でも有数の多雪豪雪地帯があるのはとても驚くべきことなのです。その原因が日本海を流れるこの対馬暖流にあります。

冬のシベリア大陸から吹き出す低温で乾いた北西の季節風が、日本海の上空を通過する間に、対馬暖流からモウモウと蒸発する大量の水蒸気をたっぷりと吸い込みます。 やがてそれが日本列島にぶつかり、上昇して一気に冷やされて日本海側に大量の雪を降らせるというメカニズムになっている訳です。

世界中で冬に月間平均気温が2〜3度以下で、降水量の多いところは、北陸以外に北アメリカ大陸北部の東西両岸の一部とノルウエ−の西岸くらいしかありません。



 

 ■ 海水の性質と海底土

対馬暖流は、日本海の生物と日本列島の気候とに、たいへん大きな影響を及ぼしています。しかし、日本海の海水全体の量からみれば、表層をすべるように流れている対馬暖流の水はごく一部でしかありません。残りの大部分の海水は、日本海に居すわってほとんど動かない水で、「日本海の固有水」と呼ばれています。

対馬暖流の水とこの固有水との一番のちがいは、塩分にもいくらかの差がありますが、言うまでもなく温度のちがいです。水温についてみると、対馬暖流が8〜17度、固有水は0.5〜0.2度という低い温度です。

対馬暖流の暖かい水は、密度が小さいので、固有水の冷たい水の下にもぐることはなく、たえず表層を流れて日本海を北上していきます。

日本海のように、周りが陸地でかこまれた海の場合には、大洋の深海にくらべて、海底土のつもりかははるかに早いです。岸に近い浅海の底では、陸地から流れ込む河川が運んできた砂や泥が、早く厚く堆積することはいうまでもありません。

岸から遠くはなれた、深さ2,000〜3,000メ−トルという深海の底でも、粘土を主とした海底土がつもる割合は、太平洋の深海にくらべるとずっと大きいのです。平均して1,000年につき10cmくらいで、太平洋の深海にくらべて100倍になります。日本海の深海部では厚さ1メ−トルの海底土がつもるのにおよそ1万年の時間がかかるそうです。


 

 ■ 魚からみた日本海

日本海はお盆のようだと言われますが、このお盆は深くしかも周囲のたいはんを陸地で囲まれています。外海との連絡路は五つの狭い海峡に限られ(朝鮮海峡、対馬海峡、津軽海峡、宗谷海峡、間宮海峡)、非常に孤立した海といえます。最も深い津軽海峡と朝鮮海峡の深さが140mで、最大深さが3,610m,平均水深が1,350mもあります。この海峡の浅いこと、つまり「しきいの高さ」が、日本海の環境を太平洋と著しく異なったものにしている訳で、ここに重要な意味があります。

驚くことに日本海の平均水温は0.9度で、北極海の-0.66度についで低い。太平洋は3.73度、地中海は13.35度ですから、その異常な冷たさがうかがえます。日本海で200mの水深で見出せる1度以下の低温水を、太平洋で見つけようとすると5,000〜6,000mまで潜らなければなりません。

つまり、日本海の200m以下の水は、他の海域よりも著しく低温で、これは「しきいの高さ」と強く関係しているのです。





  ■ 回遊魚 ブリ

温暖性の回遊魚で北海道から台湾に至るまで分布し、成魚(ブリ)になると生活適温14〜19度の水温を追って、春夏は北上し秋冬は南下して回遊します。 太平洋側のブリ漁は房総から三陸沿岸にかけて初夏〜秋に北上するブリ、相模湾から日向灘沿岸にかけて晩冬〜春に南下するブリを捕ります。日本海側のブリ漁も、春〜夏の北上期は日本列島沿岸一帯でとれ、北海道積丹半島西岸、噴火湾まで北上してその後再び南下します。

3歳以上になって成熟した成魚は、春から夏にかけては餌を求めて北海道周辺まで北上し、秋から冬にかけて産卵や越冬のために南下します。

出世魚のブリの呼び名は100種類ほどあります。地元でもいろいろな名前があって、一年ごとにその呼び方が違います。

ゼロ歳魚 - モジャコ、ツバイソ、コズクラ、フクラギ  
一歳魚  - ガンド
ニ歳魚  - ニマイズル
三歳魚  - コブリ、ハマチ、ブリ (三年で成魚のブリになります)
四歳魚  - アオブリ
五歳魚  - オオブリ

ブリの産卵場は東シナ海南部の尖閣諸島近海、九州西部、種子島・屋久島近海、九州東部から四国南西部沿岸にあります。ブリの卵は受精して水温19〜21度の海域で2日と少しでフ化し、稚魚(モジャコ)は表層に漂い黒潮や対馬暖流の流れに乗って潮目に集まってきます。ここで同じ潮目に岩から流れ出したホンダワラ類の海藻、流れ藻に居ついて一緒に北上していきます。

この時期のブリの稚魚を春から夏にかけて網で捕り、イケスに入れて養殖するのがハマチの養殖業です。モジャコは藻に集まるプランクトンを食べ,七月頃15〜18cmくらいに育つと藻から離れて沿岸域に住みます。そして三歳魚の成魚(ブリ)になるまで沿岸海域で越冬、成育します。





  ■ ブリと日本海

対馬暖流にのって日本海に入ったモジャコは藻を離れて、八月ごろには20cmほどに育ちます。それらは沿岸まで来て十月ごろまで活発にエサを食べながら留まり、十一月ごろに水温が下がると南下を始めます。南下といっても、成魚のように東シナ海まで下りはせずに、日本海の海域で越冬します。


ブリで有名な氷見漁港

「寒ブリ」は晩秋から、冬の12月〜翌年1月一杯にかけて能登から青森までの日本海に生息するブリをさします。冬型の天候になり日本海が時化ると、外海を南下するブリは時化を避けて沿岸に近づき、それを水揚げしたものです。身が締まり脂ののりも味も最高で中でも北陸産が一番と言われています。

昔から日本海のブリは、越中ブリ、丹後伊禰 浦ブリ、出雲友島ブリ、壱岐ブリ、対馬ブリが有名です。特に富山湾の氷見ブリは名前が知れています。魚の味は産卵の少し前が一番おいしく、富山湾に入る時期がちょうどそのころにあるのです。

 

秋になると富山湾の沿岸にはブリ定置綱が設置され、北の海で餌を食べて脂がのったブリを南下の途中で漁獲しています。

体重が7〜8sのものもブリと呼びますが、ブリらしいブリといえば10s以上のものをいいます。

富山湾では11月から12月にかけて、佐渡の両津湾に現れてその一週間後にやって来ます。この一週間で越中ブリのうまさが引き立つそうです。

富山湾には多くの川が注ぎ込み、栄養源が豊富でまたたくまに脂がのるからうまくなるというのです。

 




  ■ 昆布

奈良・平安時代には朝廷に献上される貴重品でした。江戸時代になると北前船によって大阪をはじめ全国に運ばれるようになって一般に広まり、中国へもかなりの量が薩摩から琉球経由で送られました。シルクロ−ドにまねて日本海経由の昆布ロ−ドがそれです。

北前船が寄港する各地に昆布を運ぶと、様々な形で加工品にされるようになりました。昆布の集積地である大阪では、ダシを取った後の昆布を煮詰めて作る塩昆布。福井県の敦賀ではとろろ昆布やおぼろ昆布が開発されました。沖縄では、ぶた肉や野菜といためたり、煮こんだりして食べています。 新しい土地に昆布がもたらされると、そこに独自の昆布食文化が生まれました。

日常的に食用にしているのは日本と中国です。 ロシアは昆布への関心が薄く、生昆布を細切りにしてオイル漬けされた缶詰がある程度。味付けは一切なく、ただ漬け込んだだけで、よく食べるとまでいかないようです。

今でこそ昆布のおいしさは、グルタミン酸であると広く知られていますが、このことを初めて発見したのが他ならぬ日本人でした。グルタミン酸の工業的生産を行った商品がどこの家庭にもある「味の素」です。

昆布は和食の味のまさをだす基本です。海藻をダシに使うのは世界的に見てめずらしいそうですが、料理に奥行きと格調を与えてくれる立役者です。昆布の旨みに気づきその旨みを料理に生かして食べるのは結局のところ日本人だけです。

昆布は寒流系の渇藻類です。寒い地方の海でのみ育つ海藻の一種で、おいしい昆布は奇麗で冷たい海でしか育ちません。古くから中国ではコンブを採ることも養殖することもなく、日本より輸入していました。昆布は生息していましたが、日本の物に比べて味が悪く泥臭い物が多かったからです。黄河の影響で海が泥臭く、中国の昆布は品質が悪く利用されませんでした。

欧米には昆布を指す言葉がありません。大体、海藻を食べないから言葉もないようです。アザラシやラッコが数十メ−トルもある海藻のジャングルで生活している様子をテレビで見かけますが、この海藻をケルプといいます。ケルプとは大型渇藻類のことであり、昆布とは程遠い物です。 世界で昆布が分布しているのは北海道のほか、サハリン、沿海州、オーストラリアのタスマニア島、南アフリカ、スカンジナビア半島、カナダなで生育しています。

昆布は寒流の流れる北海の海岸に近い岩場に育ち、海底の岩礁に根をつけて、急速に生長します。その早さは目に見えるほどで、天然もので2年(ホソメコンブは1年)で成コンブとなります。一年コンブも二年コンブも何億という子どもを宿していて、秋から初冬にかけて一斉に飛び出して受精します。水温5度前後で、これよりも高ければ受精しません。

一年目の生活を終えたコンブは夏から晩秋にかけて、葉の先からしだいに枯れ、短くなって無残な姿になります。ところがそれは一時的な姿で、残ったコンブの根元に成長点があって、冬至を過ぎたあたりから急速に再び生長します。そして夏までには二年コンブとして立派な姿になり、晩秋に子孫を残しその一生を終えます。

日本では90%が北海道で採れます。それぞれの地域ごとに採れる種類が異なります。北海道では7月から10月に収穫されます。波がおだやかで、 採った昆布がその日に干せるようによく晴れた日でなければ収穫できません。昆布が成熟した7月20日頃が昆布漁の解禁日となり、秋のお彼岸頃まで昆布漁は続けらます。 もちろん船を出して採るのは2年物の天然昆布です。この1年目のコンブは厚味がなく、「水コンブ」と呼ばれて商品価値がありません。


利尻こんぶ 甘くまろやか肉厚で風味のよい高級出し昆布。出し汁が濁らず、出し気が強いので汁物の出しに使うのに適しています。 とろろ昆布・おぼろ昆布の加工原料にもなっています。
羅臼こんぶ 知床半島で採取されるエナガオニ昆布で、素晴らしい旨味と香りの高い高級出し昆布。出し汁が多少あめ色になるのが特徴。進物用としても喜ばれています。
長こんぶ 長さが長く、早く柔らかく煮えるのが特長で、昆布巻や佃煮・おでんなど煮物用に使われます。ほのかな甘味があるので出し昆布としても使われています。
日高こんぶ コクのある味わいと早い煮上がりが特長で主に煮昆布として使われます。昆布巻や結び昆布、佃煮のほか、上級品は出しのでがよいので出し昆布としても使われています。
真こんぶ 昆布の学問的分類によっても真昆布と称されるように良質昆布の原形とされる上級品。肉厚で巾広く、清澄な出し汁で上品な味わいです。
細布こんぶ 幅が細めで、1年目に採取されます。切り口が最も白く、おもに機械生産のとろろの原料となっています。




 ■ ニシン

日本で漁獲されているニシンは太平洋に生息する太平洋ニシンに入ります。寒流性の回遊魚で群をなして移動します。日本のニシンには広い範囲を回遊する外洋性ニシンと各地の沿岸に生息する地域性ニシンがあります。かつては産卵のため北海道沿岸に接岸した外洋性のニシンを定置網で漁獲し、これを「春ニシン」とよんでいます。

かつては、100万トンレベルで漁獲され、「ニシン御殿」はあまりに有名。 日本海で「春ニシン」と呼ばれていたのは、北海道、樺太群のニシンを指します。このニシンは3から5月にかけて北海道の日本海岸に産卵のため来遊しました。

明治に入ってから本格的な漁業経営が始まり、定置網などの効率的な漁獲が始められるようになります。米以外の商品作物、特に西日本で綿花の栽培が奨励され、魚肥の需要が増大することとなりました。


ニシン御殿


当初はイワシが中心でしたが、その後ニシンを利用するようになります。ニシンは煮沸され、主に〆粕(しめかす)など肥料として北前船で本州に送られ、化学肥料のない時代の高価な有機質肥料で、ニシンの豊凶は日本の農業を左右するものでした。

北海道で最もニシンが漁獲されていた時期,年間の漁獲量は最高で97万5千トンにもなりました。それは1897年(明治30年)のことです。昭和30年には5万トンに激減して北海道の沿岸から姿を消しました。





■ 日本海の寄港地
 




 

遣隋使の時代から大陸の文化は船によって伝来するというル−トが確立され、様々な文化の導入が行なわれていました。

古代においてその舞台となったのが日本海で、 日本海こそが海外へ向けて開かれた最も大きな窓口でした。

ここでは 日本海側の港について、歴史をさかのぼって、まとめてみたいと思います。






遣唐使船


■ 古代の日本海

日本の文化は、2,000年以上にわたる長い間、いつの時代でも船が運ぶ外国の文化の影響をうけてきました。古代の日本もやはり、日本海をフィ−ルドとして船によって大陸の文化とかかわってきました。

飛鳥時代(593〜710年)のとき、607年に小野妹子を隋へ遣隋使として、そして630年に唐へ最初の遣唐使を送っています。

そのころ南満州から朝鮮半島北部にかけて支配した、高句麗王朝(紀元前37〜668年)は700年間栄えていましたが、朝鮮半島を従属国と考えていた唐と、現在の韓国にあった新羅(しらぎ)の連合軍により滅ぼされます。

韓国にあったもう一つ国、百済(くだら)が唐・新羅に攻略されます。当時、この百済と日本とは親日関係でしたので、663年に救援するため日本は戦船170艘と2万7,000人の兵を送ります。

しかし結果は唐・新羅連合軍に大敗し、朝鮮半島進出の足場は失われることとなります。現在のクム川(錦江)の河口で行われた、史上初の国際海戦 「白村江の戦い」がそれです。

敗戦後、外交努力もあって唐・新羅との関係は改善し、対外的に平穏な時代が続いていきます。ところが、ここで東アジア情勢は一変します。高句麗一族が北朝鮮、満州、沿海州一帯を統一し、渤海(ぼっかい)国(698〜926年)を建国します。やはりこの新国家も大国の唐と朝鮮半島を統一した新羅王国と敵対関係にありました。

727年に渤海国は大唐帝国と新羅王国に対抗するために日本へ使節を送り、遣使・朝貢して救援を求めました。こうして奈良時代(710〜794年)から平安時代(794〜1192年)にかけて、渤海国は日本に軍事同盟と朝貢貿易を求め、日本海をひんぱんに行き来するようになります。

秋から初冬にかけての北西季節風に乗って、日本海を横断した高句麗使節団は18回来朝しました。そして同じように渤海国からは34回も海を渡ってきています。これに対し日本から渤海国への船団は15回日本海を往復しています。

遣唐使船は264年間(630〜894年)の間で任命が18回、実際は15回渡航しているのと比較するとずいぶんと多い渡航数です。


遣唐使船模型 高岡万葉歴史館

渤海国から日本に向けての到着場所
到着回数
 対馬
2回
 出雲、隠岐の山陰地方
8回
 若狭、丹後、但馬
3回
 越後、佐渡、能登、加賀、越前
13回
 蝦夷地、出羽
3回
 着地不明
5回
 合  計
34回


古代の飛鳥、奈良時代においては日本海こそが海外へ向けて開かれた最も大きな窓口でした。ことに北陸の海岸線に使節団が到着するケ−スが多く、季節風によって渤海国の船も最も流れ着きやすい地域だったのです。




  ■ 平安時代の日本海

平安時代(794〜1192年)には、敦賀・小浜〜琵琶湖を経由する輸送路は重要なル−トでした。当時の越後・佐渡・越中・能登・加賀の国々からの献上米は、この琵琶湖の水運を利用して大津で再び陸揚げした後、京都へ運んでいます。琵琶湖のような小さな湖でも、馬で運ぶよりもコストが安くついたので、その利用価値は大きかったわけです。後に日本海西廻り航路へと発達していきます。

延喜時代(927年)に、『延喜式』という当時の政治万搬から食の様式にわたって書かれた百科便覧のような内容をもっている史料があります。その中に、日本海沿岸から年貢米を輸送する規則が載せてあります。

 各国から京に向けての到着日数
到着日数
 佐渡 国津より敦賀を経て京着まで
49日
 越後 蒲原より敦賀を経て京着まで
36日
 越中 旦理より敦賀を経て京着まで
27日
 能登 加島津より敦賀を経て京着まで
27日
 加賀 塩津・敦賀を経て京着まで
8日
 越前 比楽湊より敦賀を経て京着まで
6日

 

室町末期にまとめられた湊の習慣を集めた法律集があります。日本最古の海法である「廻船式目」がそれです。その中で、国内の重要な港湾は三津、七湊と示されています。

三津は伊勢の安濃津(津市)、筑紫の博多津、泉の堺津

七湊は越前の三国湊、加賀の本吉湊(美川町)、能登の輪島湊、越中の岩瀬湊
     越後の今町湊、 出羽の秋田湊、津軽の十三湊






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