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 北 前 船

案内係りのハルカさん



 


このペ−ジでは、どうして日本海に北前船が現れたのかをテ−マにしました。
年表の記述でなく、歴史のつながりと北前船文化がもつそのパワ−について調べていきたいと考えています。

これらの内容は、牧野隆信先生の著作を中心に、その他
北前船関連の書籍とインタ−ネットによる情報
をもとにまとめたものです。





北前船の里資料館にて撮影

 
 
■ 北前船の名称

江戸中期〜明治中期にかけて、他人の商品を運んで運賃を稼ぐ船ではなく、自己資本で買い入れた商品を他の地へ運んで売りさばき、その差額を儲ける買積み商船です。簡単に言うと、船会社と商社を一つにしたようなものです。

北前船はよく千石船とか弁財船とも呼ばれますが、明治期に入ると洋式帆船を使用するようになりましたが、それらの船もすべて北前船にあたります。北前船というのは、船の型を指すのではなく、その商業形態を呼ぶ名称です。

大阪を春の彼岸頃に出船した船は、瀬戸内海の港々に寄港してから下関を廻って日本海に出て、取引のある各港に寄りながら北海道へと向かいます。江差、松前、函館などの港に入って積荷を売りさばいてから、5〜6月に獲れるニシンの〆粕(しめかす)などを仕入れて、夏のうちに北海道を出航して帰路へと向かいます。台風期の前に瀬戸内海へ入って、晩秋から初冬の頃に大阪に帰着します。

北海道からの積荷はとくに高値で売れて、一航海千両の儲けと言われました。春から秋までの一航海で千石船一隻の建造費を稼ぎ出していたのですから、その経営形態はまさに「宝の船」でした。




 ■ 千石船

古くは米を1,000石積める船があればそれを千石船と言ったにすぎません。その後商船と言えば弁財船とういことになり、千石船が弁財船をさすようになりました。

日本海では波が高いので、船首を突っ込まないように考慮された予備浮力の大きい形状でなければなりません。また、岩礁の多い地域が多いので丈夫な船底構造が要求されます。それで船体の頑丈な、船幅の広いズングリ型の船舶が発達するようになりました。

これらの船はムシロ帆、船底が丈夫、ロカイで推進するという特色を持つもので、越前から敦賀にかけてはハガセ船、加賀・能登・越後・津軽にかけては北国船として使用されていました。その後、乗組員が少なくてすみ帆走能力に優れた弁財船が出現し、幕末以降は完全に主流となりました。

現在のヨットからみれば、問題にならない低性能だけど、逆風帆走が出来るのは貴重で、しかも帆の操作は簡単でした。ジャンクやスクナ−などの縦帆船は風上へ45度程度、弁財船の四角帆船は75〜80度程度風上へ向かえるのは画期的でした。



 

  ■ 容量の単位=石

千石船は米1,000石ぶん約150トンの荷物を積める船をいいます。
商船の積石数というのは、実績石数、すなわちその船に実際に積むことの出来る米の石数であらわされた積載量のことで、実際に船に米を積んで石数を決めていました。石はそもそも一升びんをベ−スとした、容量の単位ですが、千石船の積石数は載貨重量と考えた方が現実的です。

   一 石    =  100升    (1升は1.8リットル)
   米 一 石 =  40貫    (150kg)
   千石積船  =   150トン   (米千石ぶん)


 
 ■ 日本海〜琵琶湖航路

古くから、東北・北陸から京都への輸送路は、敦賀・小浜〜琵琶湖〜大津を経由したル−トがありました。平安時代になってもこのル−トを利用する輸送路は重要なものでした。琵琶湖のような湖水でも、陸上輸送することに比べると輸送コストに大きな差が生じたわけです。

物を運ぶには水上利用がいちばん効率的で、千石(150トン)の荷物を運ぶのに千石船を利用すれば、わずか10人たらずの乗り組員で可能になります。それが、馬の背に乗せて陸上輸送する場合は、一頭の馬に通常0.8石を背負わせるので、1,250頭の馬が必要となります。それに、馬の世話をする馬子一人が二頭の馬を受け持ちますので、なんと625人の人員が必要となります。

琵琶湖の水運と連絡した日本海航路は安定的な発達期を迎えることになります。豊臣秀吉以来、海賊は討伐されて水路は安全になり、商業が発達し各大名の領米輸送をはじめとする物産の輸送が盛んになります。

江戸時代に入ると、日本海を行き交う廻船の多くは、幕府や諸藩の年貢米を上方に輸送する廻船。そして、いち早く北海道の松前に進出した近江商人が、その地で獲れた海産物を敦賀・小浜を中心とする地域に輸送するための廻船でした。 こうして、これらの廻船がエゾ〜大阪を結ぶ西廻り航路のもとになり、越前・加賀・越中などの北前船主が現れる要素が徐々に形作られていきます。



 
  ■ 菱垣廻船 樽廻船

1603年に徳川家康が江戸に幕府を開き、江戸は政治の中心となります。大阪から江戸に灘の酒をはじめとする、大量の物資が運ばれる必要が生じてきました。この幹線航路の商品流通を担当したのが菱垣廻船(ひがきかいせん)と 樽廻船(たるかいせん)です。

菱垣廻船の始まりは1619年、元禄年間(1688〜1704年)には総数260隻の両廻船が存在し、江戸〜大阪間を定期的に運航して、江戸の日常消費物資の大半を輸送していました。その頃の大阪から江戸の所要日数は平均32日間、早い時には10日間、遅いもので2ヶ月以上かかる船もありました。一艘の稼動率は年平均四往復が標準でした。

しかし、北前船の方は明治になっても買積船として残り、明治中期には日本の代表的船主の地位を確保しました。それに対し、太平洋で活躍した廻船業者はすぐに消えていってしまい、歴史に残ることは出来ませんでした。原因は激しい競争のもとに問屋資本の支配下にあって、自由な発展が出来なかったからです。

運賃積みと買取積みという付加価値の違い、そして北海道貿易という経営スケ−ルの違いから、利益の大きさにひらきがありました。当然、資本蓄積もままならず、各方面への資本進出も出来なかったため、終息という運命に至ります。

でも、この両廻船は大都市江戸に大阪から物資を輸送し、近世海運発達の上で大きな足跡を残し、南航路を確立たのは事実です。




  ■ 近江商人と松前藩

近江商人は、近江の国(滋賀県)で生まれ育ちながら、わざわざ他国へ出て店を開き商売をするというパイオニア精神に特色があります。彼らは、江戸時代初期に海峡を越えてエゾ地へと渡り、北海道初期開発につくしました。北海道交易の開拓者は近江商人といっても過言ではありません。まだ定住者も少ない未開地の北海道に移り、松前藩と一体の開拓によって藩の財政を一手に握るようになります。

松前藩は1604年に家康よりエゾ交易独占の黒印状が与えられました。このエゾ地は江戸期に米の収穫はなく、よって石高も無いのですが、特別に一万石格を与えられていました。家臣への俸禄(給料)はアイヌ部落ごとの交易独占権の分配という形でなされ、ここに近江商人の商才が入り込んでいくわけです。松前に拠点をもち各地で活躍した商人たちは、次第にその数を増し、商いも大きくなりました。

北海道で買い入れたさけ、にしん、こんぶなどの海産物は、自分たちの持ち船によって京都、大阪へ運びました。その輸送経路は、最初は日本海から敦賀を経て琵琶湖を利用し、後に日本海から瀬戸内海を経由するル−トを通って輸送しています。そして北海道へはこの逆コースによって衣料品、小間物、雑貨、荒物などの物資を運び、往復取引によって繁栄したのです。  

 

松前藩は広大な蝦夷地をまとめるために、『場所請負制度』というシステムでもってあたります。 『場所請負制度』とはアイヌ居住地域を『場所』という区分で分割し、その支配を『場所請負 商人』に委ねるもので18世紀ごろには確立していました。 松前藩から認められた、こうした特権商人に近江商人が関わっていたのです。

ところが明治維新後、1869年(明治2年)場所請負制度が廃止されます。独占支配していた場所請負人、近江商人たちは次第に店を閉鎖していきました。こうして次に松前、江差、函館、小樽に残した近江商人の足跡の上を、北陸の北前船主たちがその全盛期を向かえることになります。





加賀藩三代藩主 利常
■ 加賀百万石 三代藩主 前田利常

2002年のNHK大河ドラマ「利家とまつ」が放映されました。この前田利家の四男、利常(加賀藩三代藩主)が寛永16年(1639年)に下関を廻って大阪へ藩米100石を廻送したのが、北前船の始まりです。

加賀藩随一の名君だった利常は、百万石を安泰にするため、鼻毛を伸ばしてバカ殿様を演じていたのは非常に有名な話しです。 なるほど、前田家は120万石という徳川宗家を除くと最大の領土を持っていたせいで終始幕府に警戒されていました。そのため、利常はつねに気を使っていた訳です。実際には行政・文化面で数多くの業績を残した訳で、ここに外様大名のしたたかさを知ることが出来ます。

加賀金沢藩祖の利家は、織田信長から柴田勝家与力として、能登一国を与えられましたが、賤ヶ岳(しずがだけ)で、柴田勝家を裏切って豊臣秀吉に与し、秀吉の天下取りを大きく助け、加賀越中能登で120万石を得ました。三代利常は二男利次に富山10万石、三男利春に大聖寺7万石を分封。以後102万5千余石が加賀藩の表高となります。 外様大名ではありますが、全国最大の藩であり、徳川御三家と同格の大廊下詰めを許されていました。

        

生活費や参勤交代の経費など、 百万石の大所帯をまかなうために多額の現金が必要で、加賀藩では利常の時代に改作法を実施しました。これは米の生産を奨励し、その他の作物を制限する政策で、これによって藩米収入を増加させようとするものでした。この結果年貢米が増加し、それを大阪・江戸へと積み出し、売却して加賀百万石を維持していたわけです。

この15万石の米を古米になる前により早く確実に上方(京都・大阪)へ運ばねばならなかった訳ですが、そのノウハウは朝鮮出兵(1592年、1597年)と島原の乱(1637年)の際の日本海西航経験がものをいいました。

こうして東北・山陰などの日本海側の各大名もこぞって年貢米を上方へ運ぼうとして、下関経由の大阪廻米が定着し、長い間続いていた敦賀〜大津経由の上方米が姿を消していくことになります。
加賀藩の藩米輸送の始まりで、西廻り航路の下地が確立されることとなりました。




  ■ 東廻り航路と幕府の海運政策

河村瑞賢は、幕府の陸奥の天領貢米を江戸へ輸送するために、東廻り航路を開拓し多大の効果を納めました。また寛文12年(1672年)に出羽最上郡の天領米を江戸へ輸送するために、最上川を下り酒田に集め、5月に酒田を出発して下関経由で7月に江戸に到着という西廻り航路の功績もあります。


ジャンクの模型船

これらは貢米をいかに能率よく安全に江戸へ運ぶかという改善を目的としていて、幕府の都合から実施されたものに過ぎません。海運技術の向上とか航海安全対策という考えはなかったようです。

さらに効率よく貢米輸送をおこないたいため、鎖国下でありながら、耐航性と帆走性にすぐれた、海外へも渡航できるジャンクを建造しました。しかし、建造されて10年後に解体されてしまいました。理由は、海外渡航禁止の強化と密貿易事件が発覚して、政治的動向がひびいたからだと考えられます。これ以後近世の日本で、ジャンクが建造されたり使用されることはありませんでした。

朱印船時代に、長崎〜マニラ間を20日で航海できる技術をもっていたのに、国内航路の西廻りでは数ヶ月、南航路では平均32日も費やし、海難事故も多かった。朱印船時代に会得した航海技術と造船技術を放棄してしまい、以後内航船と地乗り航海に終始することになりました。もし鎖国がなかったならば、明治維新を待たずにして日本の国際的地位は確立されていたはずです。

かくして幕府がめざした東廻り航路は、距離的には江戸に近かったけれど、江戸へ米を送るだけで帰り荷の量が少なく営業的に価値が乏しいル−トでした。その上に津軽海峡、房総半島という難所があり、危険水域が多くて発達しませんでした。




  ■ 西廻り航路と蝦夷(エゾ)

消費地から遠く離れ、輸送コストとリスクをかけてもなお利潤の上がる地域、それが蝦夷地でした。そこには安い材料と安い労働力があったからです。石高の無い松前藩はここを領有し、アイヌ交易を独占することで藩の財政基盤が成り立っていました。そこに近江商人が参入してきてアイヌ交易権と漁業権を獲得することになり、日本海を利用してさまざまな物資を運びました。

こうして、近江商人により蝦夷と北陸、加賀藩により北陸と大阪という二つの航路が直結することになります。この航路は菱垣廻船・樽廻船などのように運賃を稼ぐことはせずに、物資の価差で利を上げることに徹し、南航路の廻船とくらべて経済性がきわめて高かった輸送路でした。そして西廻り航路である新たな日本海航路へと発展し、明治中期までに日本海の黄金時代をつくることになります。

下図のように、近世の物資の流れは、西廻り航路と南航路、それに東廻り航路の三つのル−トの確立により、はじめて日本の物流の統一ができたこととなりました。



幕末から明治の初期にかけて、近江の商人が漁場の管理や北前船を使って商いをしていました。その彼らに雇われていた船頭たちが加越能(加賀、越中、能登)の新興勢力でした。この船頭が独立して船主となり、卓越した技術と知恵によって多大な文化を地方にもたらすことになります。北前船が最も栄えた時期は、近江商人からこの加越能商人が蝦夷地に勢力を伸ばした時代でした。

北前船は北陸地方の船で、大阪から下関を経由して松前に往復した買積船であり、船型は一枚の大和帆船から蒸気船以前の西洋帆船までをさします。日本海航路の船舶はほとんどが日本海沿岸の船員によって動かさていました。このような歴史により、現在も富山・石川・福井の出身の船員は多く、伝統的に船乗りの出身地となっているわけです。



  ■ 北前船の経営
北前船の経営は、蝦夷地からニシンや昆布の海産物を積み出し、本州からは米・雑貨・衣類などの生活物資を運ぶというスタイルをとっていました。その最大の特色は、買積みという、商品を買って運びそして売るという三要素が盛り込まれていることにあります。収入は運賃ではなく売買差益ですから、商売をマネジメント(管理)する能力が求められます。


大和帆船と大型帆船

大阪〜江戸を結ぶ南航路は大量の物資が存在し、菱垣廻船・樽廻船などはその豊富な仕事量のもとで成り立っていました。かたや西廻り航路はというと、各藩の年貢米を除いて運賃積みの仕事はそんなにありませんでしたから、蝦夷地という交易地を最大限に利用して、自分で仕事を創っていかなくてはいけませんでした。

このチャレンジ精神と企業家精神が北前船経営の一番すごいところで、注目すべきところだと思います。どんなに蝦夷地に儲かる商品があったとしても、企画力と管理能力がないとこれだけのことは出来なかったはずです。


大型帆船

北前船における五大船主は敦賀の右近家、加賀の広海家・大家家・浜中家、越中岩瀬の馬場家とすべて北陸に存在します。その力の大きさを広海家を例に見ると、明治21年に汽船北陸丸(614トン)を購入しています。

当時国内で蒸気船を購入しているのは幕末からで、これらはすべて幕府と各藩の事例にかぎられます。また明治に入って民間で蒸気船をもつものは、三井・三菱などのいずれも政府の手厚い保護による財閥のみで、個人の独力で蒸気船を保有したのは広海家が最初でした。


飛躍的に西廻り航路が伸びた原因は、国内の農業生産構造に変化が起こったからでした。従来の農業生産はたい肥を中心したものでしたが、単位面積あたりの収穫量を増やすためと米以外の商品作物を栽培するのに、魚肥の使用が行なわれるようになったのです。それにはニシンの〆粕(しめかす)が有効で蝦夷地のニシン漁がどんどん拡大していきます。商人たちも以前のようにアイヌとの交易でなく、そこでの大規模な漁業経営を目的として移行していきます。


エゾ地 古地図

魚肥を生産するためには大量の魚を必要とし、それを捕るために大きな網を必要とし、その網を使用するには大勢の労働力を必要とし、さらに魚を肥料に加工するためにここにも多くの労働力が要りました。この安い労働力の提供者がアイヌ人です。

アイヌ民族は、かって東北地方北部から蝦夷、樺太、千島列島に及ぶ広い範囲をアイヌシモリ(人間の住む大地)として先住していました。それが松前藩や商人に不合理な交易を強要され、そして安い労働力として強制されて、アイヌの生活は著しく圧迫されました。 北前船の経営は蝦夷地の豊富な水産資源と低賃金で雇われたアイヌの人たちが必要だったのです。



 
 ■ 昆布ロ−ドと薩摩藩

平安時代初期に坂上田村麻呂が征夷大将軍となり蝦夷を征伐して平定させ、平安京と蝦夷地との関係は深まり、蝦夷の昆布も中央に知られ始めます。中国では、海の野菜である昆布の効果は、高血圧予防、ガンの免疫強化、老化防止などの効果があるとされていました。

1609年に薩摩藩初代藩主の島津家久は琉球に侵攻し、その琉球を通じて中国(明朝)と貿易を行なえば多くの富が得られることを知りました。こうして領地となった琉球は薩摩藩と中国両方につかえるという両属国家として江戸時代を過ごすこととなり、 七十七万石の島津藩は中琉貿易で石高以上の実力を蓄えていきます。


大和帆船と大型帆船

そのころ中国人は昆布を欲っしていました。なぜなら、ヨ−ド、カリウム、カルシュウムなど多量に含む昆布が、大陸にまんえんしていた風土病、甲状腺腫によく効いたからです。もちろん薩摩藩は見過ごしたりはしませんでした。北前船が蝦夷地から運ぶ昆布に異常なまでの執着を見せます。この昆布と薩摩藩との間に関わって、仲を取り持つのが越中の売薬人たちでした。

薩摩の土地は地理的においても辺境の地であり、もっとも閉鎖的な領域とされていましたが、富山の売薬人にとっては薩摩も同じ行商圏でした。このたくましい越中の行商人に北前船が一役かっていたのです。


薩摩藩内に入ることはなかなか難しく、幕府の隠密は無論、商人も僧侶も関所を越えることはままならず、もちろん領外の船が入港するのも困難でした。しかし、越中売薬人だけはそれが可能でした。薩摩藩にとって、全国を行商圏とする越中売薬はいくつかの魅力がありました。売薬人は全国レベルの情報入手源になること、そして最も期待される貿易品を運ぶ北前船の仲介役になれると判断して、領内での売薬許可が認められたのです。

薩摩藩はその代償として、幕府ご禁制の俵物(ナマコ、干しアワビ、フカヒレ)と蝦夷の昆布の納入を求め、この二つを支配する琉球から中国へと輸出品として運び、輸入品は薬種を主に受け入れます。これを再び当時製薬の中心だった富山の製薬業者に売られます。

北前船の運んだ昆布は琉球を通して中国に買い取られ、その代償に得た薬種が国内で高く売れ、ますます薩摩藩は財力をつけていきます。その資金をもとに、ついには倒幕そして明治維新と変動していくのです。昆布が時代を動かし、北前船がそのきっかけをつくったというわけです。


 

  ■ 北前船の転換

明治に入ると西洋型帆船が入って来て、明治政府はそれを奨励し、明治18年以降は500石以上の大和型帆船の建造を禁止しました。西洋型帆船は性能も優れ、和船ならば北海道往復年一航海が標準で冬季は休航しましたが、西洋型帆船は航海数も多く、冬でも瀬戸内海・太平洋を航海しました。しかし、西洋型帆船は船価もとても高く、すべての北前船主が購入できたわけではありません。結局、西洋型帆船が北前船に普及しないうちに買積船の北前船の時代は終わることになります。


蒸気船

繁栄を誇った北前船でしたが、明治中期以後はその経営も衰え、ついに終末を告げるわけですが、その原因は電信と鉄道の開通という時代の流れでした。それらにより、もはや産地と消費地の間に大きな値幅差はなくなってしまい、主要都市に物資が集中して小船主の根拠地とした港は衰退してしまいました。

決定的なのは明治24年に東北鉄道が開通して、北海道は東京の経済圏に入ることになり、北前船の活躍する余地は完全に無くなってしまいます。力のある北前船主は西洋型帆船を使用して頑張りましたが、もはや買積船経営はそれまでで、若干の船主が汽船に転換して太平洋航路・近海航路での海運業に転化していきます。

北前船主は豊富な資本を蓄積していたので、菱垣廻船・樽廻船と異なり、買積船から他の事業へ転換できました。蒸気船に転換して近代船主に成長した船主、主要な港に定住して問屋商人となる船主、土地・山林の不動産業となる船主、金融部門へ進出する船主、そして近代的漁業部門へ進出する船主などと各方面へと資本進出します。

江戸中期〜明治中期にかけて、北国の小さな諸港を基地として鎖国時代における全国の経済を促進し、明治前半まで北海道と関西を直結した不定期便である北前船は、動くマ−ケットとして近世の物流に多大な影響をあたえました。そして時代が必要としなくなった後は、帆船というスタイルを変えて再び日本経済に参入していくこととなるのです。




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